現代劇作家シリーズ5 J=Pサルトル「出口なし」フェスティバルが終わりました。
いくつもの「出口なし」を観ることが出来、とても面白く、勉強になりました。
皆それぞれが真面目に戯曲に取り込み、とり込まれていました。
最終日には演出家が勢揃いし、思いを語り合うシンポジウムなる催しもありました。
司会の梅原さんがバランスを見ながら上手く進行してくださったのですが、多くのカンパニーにとってこの戯曲へのチャレンジがフェス参加によるものである為、一番大事な核の部分が曖昧もしくは空洞なので、作品も話し合いもぼんやりしたものになっていた印象でした。そりゃあ痒い所に手が届いちゃったら困るわけで・・・。その結果、大切な技術の話も出来ないのです。
まぁしかし、その点は企画を考えれば判ることなので、それはそれとして興味深く他の演出家の話は聞きました。
その話を聞きながら僕は、とりあえず取り組んでみた、とりあえず観客に観てもらった、というのはやはり演劇の良い所だと思いました。
終わったばかりでなんですが私たちは、この戯曲に再挑戦しようと思っています。
出来なかったこと、気づいたこと、やらなかったこと、これらを冷静に見つめ、ただ一度のお祭りにしないようにと考えています。74時間の稽古時間ではあれぐらいしか出来ませんでしたが、私の演出はこの戯曲の過去の上演作と戦うものです。
なので過去の上演は10作品ぶん上書きされました。
彼らの作品に敬意を払いつつ、また「出口なし」の門を叩こうと思っています。その為には「もっともっと技術を磨かなければいけない。努力できることを発見していかなければならない。」ajiの中では、このように総括しました。近々また本読みから始めます。

しかし「出口なし」って面白いタイトルだなぁとしみじみ思っています。
溢れ出る非常事態感!出口がないというだけなのに、まるで災害時に非常口がない!みたいな雰囲気があります。もはや述術トリックですね。戯曲もそうなんですけどね。出口とは内から外への口、そのあたりを次は考えていきたいのです。
ご来場いただいた皆様、フェス関係者の皆様、ありがとうございました。

島貴之


「出口なし」演出ノート

今から10数年前、こんな体験をしました。
当時まだ俳優を志していた私は、三軒茶屋にある劇場のかなりいい席に座ってもうじき来るであろう、あの台詞を待っていました。普段、受付に渡す金額の3倍ほどする座席です。これは母親が、本場イギリスのシェークスピアを誕生日だからという名目で買って送ってくれたものでした。
ハムレットは背の高い黒人が演じていました。食い入るように舞台を見ていた私には拍子抜けするほどの自然な演技が初めから続いています。今でもあの澄んだ空気のことをよく覚えています。さて、「待ってました」のそのシーンが始ります。黒人のハムレットは、ほんの少しだけ俯き、そしてわずかに上げた左手の手首に右手指先を当てました。会場はまた新たに静まり、彼を注視しています。−その時、場違いにもほどがある音が鳴りました。誰かの携帯電話が鳴ったのでした。どのくらいの時間だったのか今はもう覚えていませんが「あぁこれは笑点だなぁ」となぜかぼんやり納得したことは覚えています。
少し俯いていたハムレットは顔をあげ、私を見て、ウインクしました。会場が拍手に包まれました。彼はそれを受けてほんの少しだけ微笑えんで、そしてまた同じ姿勢をとって続けました。
「To be or not to be, that is the question.」
この体験は私の演劇人生の中で最も劇的な瞬間の一つでした。俳優であった頃の私はこの時のことを、ものすごい偶然とだけ捉えていましたが今は違います。あの対応をすることが出来得る状態で俳優を舞台に送り出すこと、それを稽古場で作ること。それも我々演出家の為すべき仕事で、その芝居の話で言えばピーター・ブルックの仕業なのです。
「出口なし」は3人の人間が地獄(正確には地獄にも成りうる部屋)に連れてこられ、すったもんだの挙句ドアが開いても出て行かないというお話です。
元々キリスト教では、神は人を地獄に落とそうとは考えず、人が選択して地獄へ行くのだそうです。私たちの国は今、地獄の道、戦争へ続く道を進んでいる気がしています。それは誰が選んでいるんでしょうか。私たちはとても強い集団圧力の中生きています。これは良くも悪くも私たちの国の特徴で、文化であると言ってもいいくらいです。私は今、あの場違いな携帯電話の音が必要であると考えています。それがもし見当違いな何かであっても空気は動きます。そして出来れば、そのKYな何かが災害などでなく人為的な物であると良いなぁと願い、演劇をしています。

演出 島 貴之


出演
眦腑譽
時田光洋
中藤奨
勝又絢子




次回公演のお知らせ

現代劇作家シリーズ5 J-P・サルトル「出口なし」フェスティバル参加




作 J=P・サルトル
演出 島貴之

出演 高島レイ/時田光洋/中藤奨/勝又絢子



■日程
5月1日(金)19:00
5月2日(土)14:00/19:00
※ロビー開場は開演の1時間前、会場開場は開演の30分前
石本華江+Rosa van Hensbergen [イギリス]の公演と連続上演になります
上演時間120分


■チケット
前売り:2,500円
当日:2,800円


■チケット取り扱い
[ajitarian@gmail.com]宛てに、件名を≪チケット予約≫とし、本文に≪お名前・日時・枚数・ご連絡先のメールアドレス≫を記載の上、送信ください。
返信メールをもちまして、ご予約完了となります。


■会場
d-倉庫
http://www.geocities.jp/azabubu/map_d.html
日暮里駅南口から徒歩7分

■お問い合わせ
劇団aji mail:ajitarian@gmail.com



■解説&あらすじ


◎ジャン=ポール・サルトル
(1905〜1980)
フランスの思想家。現象学に刺激を受け,無神論的実存主義を主唱して戦後文学の知的指導者となり,「現代」誌を創刊。のち、文学者の政治・社会参加を説いて、反戦・平和運動に積極的に参加した。代表作として、小説『嘔吐(おうと)』,戯曲『蠅』,論著『存在と無』『弁証法的理性批判』などがある。

◎「出口なし」
死んで地獄に行き、一室に閉じ込められたガルサン、イネス、エステル。ガルサンは徴兵忌避の罪で銃殺され、イネスは交際相手とガス心中を図り、エステルは嬰児殺しを犯して、病死した。出口のない密室の中で、訳ありの過去を語り合うも理解し合えない死者3人は、これ以上死ぬこともできずお互いを苦しめあう…




現代劇作家シリーズ5:J-P.サルトル「出口なし」フェスティバルとは?
ブレヒト,イヨネスコ,アラバール,寺山修司…現代の著名な劇作家の作品を一本取り上げて,その戯曲だけを連続で上演する「現代劇作家シリーズ」第5弾。今回は20世紀を代表する哲学者サルトルの戯曲『出口なし』。死んで地獄に行き,密室に閉じ込められた男女3人に秘められた悲しい過去とは何か?そして, 3人を待ち受ける運命とは……演劇・ダンス・パフォーマンスなどジャンルを超えての競演。全10団体がサルトルに挑戦する!! 


※お暇をこじらせて兇茲


ここ最近のajiのお芝居では鼻眼鏡をかけて俳優が演じる事が多い。
反応は様々だ。
・「面白い」
・「意味が分からない」
・「誰だかわからない」
・「逆に個性がクッキリ出る」
・「ピエロみたい」
・「オリジナリティーを出そうとしてるんじゃないか?」

私としては作品に色々な感想を持っていただけること、それ自体がありがたいことである。
しかし、なぜ?と聞かれたら今は「好きだから」と答えたいと思っている。
勿論「鼻眼鏡をかけると俳優に影響が出る」というような理屈や理由はあるのだが、あえて趣味的なルック(見た目)のことを書いてみる。
鴨居玲という洋画家が居て、私は彼の絵の中にある「闇」と「朱」に惹かれるのだ。おこがましい言い方をすれば、共感といってもよいのかもしれない。





※(実は最近知ったのだが)この画家と私は同郷らしい。…あらためて検索すると諸説あるようだが。
「墨・黒」でなく「闇」。「赤」でなく「朱」。悲しさ。潔さ。
表現する時の手際やモチーフの選び方が、このようにありたいと思っていて、ともかくこの感性を土台に、私なりの絵作りをやっているのだ。私なりのという部分を今あえて言葉にするなら「ニセモノ化」である。これはまだキチンと語れる段階ではないが、問題提起をするなら、上に貼り付けた絵画は一見するとヨーロッパ人が描いたもののようだけれどもそうではないので、
日本人が描いた痕跡があり、またその選択をした理由が画家にもそれを観る私の中にもあるのだと思っている、というところか。
「ニセモノ化」に関してはまたいつか整理できたら書こう。

島 貴之
「お暇をこじらせて供
チケット情報
以下の回は、チケットが完売致しました。

1月31日(土)14時〜の回
2月1日(日)14時〜の回

その他の日程は、まだお席に余裕がございます。
お早目にご予約ください。

当日券は、開演の30分前より先着順にて販売致します。

また、CINRA.NETに記事を掲載いただきました。
もしよろしければご覧くださいませ。
http://www.cinra.net/news/20150121-aji